Pet Sounds

いつもこの作品を訊くとharurinさんの事を思い出します。 あぁなんでなのか、あぁそこでは知りたくもなく、あぁ知ってしまった今の私はどうしたらいいんだろう、あぁ、あぁ...っていう、順繰りに再会する順繰りに再会したくない【順繰り】っていう言葉の意味の大きさが正直、イヤなんです。

こないだ同名の本を読んだらあまりにボブ・グリーン然しており、上記の次第に相成ったって感じなんですけどね。

1966年発表の音楽史上永遠に輝き続ける奇跡のマスターピース。このアルバムが後の音楽シーンに与えた影響ははかりしれない。

興味深い話なんですが、アーティスト(達)の経緯とか知るとその作品群を聴きたくなる向きが一般にはあり、その割には聴いてから感想を求めると、答えがあればよいものの「実は聴いていないんだよね」とか言われちゃう事がありまして、ことこのアルバムでは著しいところです。

聴いてみればいいのにね、大音量でさ。

当サイトはどちらかと言えばポピュラーミュージックの源泉を享受していないサイトなんで、すごい偏りがちな書き方しか出来ないからかえって直接的な書き方をしちゃうのですけれども、サイケのファンがこれを聴くのの最大の関門っていうのは実は、ハーモニーなんじゃないかなって思うんです。

もしPet Soundsのハーモニーが学術的な評価の上でサイケファンの興味に合わないんだとされるんだったら、私はこう言いたい。

こんな気持ちの悪いコード進行の上に成り立っているハーモニーを総体的に一般的と評するならば、もうサイケってなによ!

表面だけのPet Soundsの評価は先のボブ・グリーン然たる翻訳書を待たずに今されるべきでしたし、そうじゃなければ今なされるべきでしょう。

harurinさんの聴く音楽の「幅」っていうのは(年の功っていうのもきっとあるよね)、様々な音楽をその身に通し、評価したりしなかったりの上で、余すところもないだろうけど妥協もせず、インターネット上で正直にあり得た結果だと私は思うし、そうじゃなければ、反論に対してあそこまで「受け入れる」度量は無かったと思います。

私はPet Soundsを聴くと、harurinさんの事ばかり思い出し、逆にビーチボーイズ?みたいな錯覚にとらわれる程なんです。

サイケファンはいつも以上に音量デカくして聴くべきマストアイテムです。 でも、ただ単に聞き流さないでね。