信州伊那諏訪 八十八霊場

本ブログからのまえがき

信州 伊那・諏訪 八十八霊場 昭和53年戌午年版(伊那市山本町常円寺内 伊那諏訪八十八ヶ所札所 開扉實行委員会 編集発行)を底本としています。

明らかな誤字は補完の上訂正しています。 また縦書きから横書きにする手前上、年号につづく年月日や世(代数)のみ漢数字のままとするよう努めています(現状は不完全)。 旧字を改めることはせず、所在地表記も底本当時のままとしています。

本ページの権利は、底本の編集元であるところの「伊那諏訪八十八ヶ所札所 開扉實行委員会」が有するところです。 本ページは権利者の利益をみだらに侵すものではありません。

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ページ沿革

2023.05.06 ページ立ち上げ
2023.05.24 大まかなにページ完成
2024.02.19 HTMLソースの不備により 23 番より 30 番までが表示されていませんでした

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信州伊那諏訪 八十八霊場札所縁起について

観音霊場巡拝の信仰は、その昔四国で発生し、西国、東国と伝え行われるようになったという。当時は勿論、徒歩で巡礼したのだから、その労苦は想像以上のものがあり、二ヶ月も三ヶ月もかかった、つらい困難な旅であり、同時に信仰につながる楽しい旅であったに相違ない。そして巡礼の旅の楽しみと喜こびは、人から人へと伝えられ、一生に一度は霊場の巡拝をしたいというのが、庶民の念願であったと思はれる。しかし時間的にも、金銭的にも、そんなに遠くまで出かける余裕のない人達は、せめて近くの寺に霊場を勧請したり、またそれぞれの地方に、四国や西国になぞらえての礼所づくりを行い、全国各所に札所が作られ、巡拝が盛んになってきた。その札所の数は驚くべきものがある。そして巡礼がどんなにか人々の心を洗い、救いの道につながっていたかが想像される。
伊那・諏訪八十八ヶ所の霊場も、このような庶民の信仰を背景にして発生したものと思はれる。大正七年版の札所縁起によれば、その昔、元禄四辛未の年に、飯島村城取氏、福岡村福沢氏の発願により、上穂小町谷氏、其の他大方信心家の賛成を求めて、四国八十八ヶ所霊場になぞらえ、伊那・諏訪の寺院について順次札所を定めて、その寺々のご詠歌を集めて之を印施して、参拝者の便に供したという。その後は六十一年目毎に御開帳供養を行うこととし、近くは安政五戌午年、次には大正七戌午年、札所寺院一斉に四月十八日より五月二日に及ぶ満十五日間の盛大な御開帳供養を行ったとある。

さて、昭和五十三戌午年は恰も六十一年目の御開帳の年に相当する。まことに待望の年である。ましてや秘佛の御本尊に於ては、住職でさえもその尊像を拝することは出来なかったのであるから、難値難遇の年といえる。先人の尊い信心を想起して、この勝縁を有難く相受けて、檀信徒喜びこぞって巡拝に参加し、信心増長、佛法興隆の時としたいものである。

昭和五十三年春吉祥日

伊那諏訪 八十八霊場札所 合掌

開扉供養 昭和五十三年四月八日佛誕の日より 同年同月十八日観音縁日の日まで 満十一日間

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Google マイマップに登録した八十八霊場

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八十八霊場一覧(抄)

01: 羽広山 仲仙寺(天台宗)
伊那市西箕輪羽広
35.88821, 137.91484
公式サイト

弘仁七年開山慈覚大師経ヶ岳に霊木を得て本尊を刻む。藤原法師大師の命により山腹に大神護山藤宝寺を建立し、御射山の別当寺として十二坊をようし隆盛を極む。慶長年間飯田城主小笠原秀政公の発願により現在地に建営、四国、西国、秩父、坂東の観音石仏、道標町観音石仏、千匹馬他の絵馬多数等観音霊場として信仰者が多い。またかっては馬の観音様と言われて有名であった。

略縁起
02: 宝寿山 正全寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡箕輪町中箕輪上古田
35.92325, 137.93784

上古田の西方、1000米の山地標高1203米の高地にあり、開山は明音寺三世日佛禅師大光文岳大和尚、文禄二年帯無山に登って禅定を修した折にお告げがあり、樹林の間より聖観世音像の現れ出づるを見て、善男善女の力をかり、文禄六年五月堂宇を建立し尊像を安置した。

略縁起
03: 騮飼山 香住寺(真言宗)
長野県上伊那郡辰野町今村
35.99954, 137.97337
Instagram

当寺は淳和帝天長年間、宮所の奥今村に、創立弘法大師の開基、寛正五年大和国に文弘律師が紀州根来山に安置しあり弘法大師作の虚空蔵菩薩をもち来り堂宇を現在地に移建した。依って律師を中興開山とする。現在の本道は享保七年住職栄運代に再建したものなり。尚他に高尾殿あり創立は明治十七年建立す。馬頭観世音菩薩・高尾山飯綱権現を安置してあり。

略縁起
04: 普門山 観音堂(曹洞宗)
長野県上伊那郡箕輪町松島南町
35.90018, 137.98223
公式サイト

本尊の十一面観音像は非常に古く、羽広仲仙寺上古田正全寺の観音像と同一の木によって作られたといわれている。開山は不詳。
明音寺の末寺であったが中途廃絶し其後樋口氏により開基された。

略縁起
05: 金剛山 明音寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡箕輪町松島
35.91823, 137.98245

享禄三年(1530年)二月対仲霊乗大和尚の開山。開基は松島城小笠原対馬守朝敬太夫、源頼実朝臣で今より450年前となる、その後二度の火災にあい現在の建造物は220年前再建されしものである。

略縁起
06: 桑沢山 薬王寺(真言宗)
長野県上伊那郡辰野町北大出
35.94765, 137.96528

當寺の創建推古天皇十五年、聖徳太子が桑沢山堂平に建立す。その後、建久三年源頼朝が現在地に移建した。現在の本尊は明治二十四年四月十三日付、国の重要美術品に指定される。昭和二十六年、元伊那富尋常高等小学校奉安殿を譲り受けて本尊様の収蔵庫とする。祭礼は四月上旬、又二月節分会を盛大に厳修している。

略縁起
07: 中島山 慈眼院(曹洞宗)※付近
長野県上伊那郡辰野町新町神戸
35.96301, 137.9791
※「隣の(神戸)公民館の一間を仏間として移転安置」より推測

創立年月日不詳なれど、永禄年間前の建立にて、永禄七年二月十七日武田信玄使者をして祈願せしむと印されておる。代々庵主が守り、信者の道場としてまた部落の集会所として歴史を重ねる。今は無住老朽甚しく、隣の公民館の一間を仏間として移転安置し礼拝施設建立を計画中。本尊の厨子が由緒ありて例祭あり。

略縁起
08: 錦鏡山 明光寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡辰野町北大出
35.95474, 137.97163

元禄八年の秋、明音寺八世 慈越格門大和尚の開山。本道・庫裏は享保九年に再建され、今日に至っている。
山門は、十一世 聴外普聞大和尚代、文政八年三月、諏訪 小口直四郎により建立され、和四郎現在二十一世なり。

略縁起
09: 泉水山 長久寺(浄土宗)
長野県上伊那郡辰野町宮木
35.97849, 137.98278

当寺は六十九代後朱雀帝の長久年間新町字泉水に建立さる。天正二年甲州の僧岌住上人により宮木町裏に再興、知恩院直末となる。享保年間、天明三年、文化十二年と三度に亘る類焼に遇いたるため文政十三年現在地に移転さる。弘化二年本堂再建に着手するも元治元年造作半にて暴風のため倒壊、現在の本堂は大正九年建立。

略縁起
10: 蟠龍山 池上寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡辰野町宮所
35.98793, 137.97934

開基は諏訪三郎盛高、建武三年八月信州伊那郡大徳王寺城にて戦死、宮所氏滅亡となりその霊をまつり、地上寺を建立。地上寺殿と追贈。当寺は現在の稚児神社の北上にあり、下に大きな池があったという。文化十五年と安政六年の二度の火災にあい全焼。其後現在の地に移転建立す。元禄元年虎心和尚龍勝寺より来て曹洞開祖となる。

略縁起
11: 普門院 観音堂(真言宗)
長野県上伊那郡辰野町上島
36.00529, 137.97397
辰野町観光サイト

当本尊は、今を去る凡そ七百年前、高野山清隆寺如法堂良禅法師、仏教興隆のため、禅定院内虚空蔵仏舎利四十一粒、栂尾上人御秘蔵の御土砂七粒、弘法大師伝来の香木等を携え、官道を下り、此の地に至り、観音力を授けんと発願し、郷土上島孫次郎裕神光信に相計り、善光寺仏師妙海をして、正和・文保・元応・元亨と八年を要して、刻まれた貴重なる御尊像で、昭和九年国宝指定重要文化財に指定されている。

略縁起
12: 白鳳山 瑞光寺(臨済宗)
長野県上伊那郡辰野町川島
36.00334, 137.9173

瑞光寺本堂横に、四間四面に回廊付き、床下約一間の高い御堂があり、朝日観音堂と言う。
木曽義仲が隠れ城、瀬戸城に在りし時、たまたま近くの川島谷に狩りをした、その折、自分の守り本尊佛観世音菩薩を紛失。後の世の人がそれを拾い、僧俗に呼びかけて堂を建て、安置したのが札所十二番のこの堂なり。

略縁起
13: 医王山 七蔵寺(真言宗)
長野県上伊那郡辰野町七倉
36.0039, 137.98212

七蔵寺は上辰野の王城山中腹にあり、天平勝宝年間(749〜756)に行基によって建立されたと伝えられ、戦国時代に何度か戦火に遇っているが高遠藩などの手厚い保護を受けた。僧の修行寺としても栄え、江戸時代まで伊那谷の名さつとして知られた。最近、平安末期のものと推定される「御正体」「懸佛」が発見され話題となっている。

略縁起
14: 瑞辰山 法雲寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡辰野町下辰野
35.98784, 137.99732

創立は寛文七丁未年、武田家の家臣、辰野宗貞が、阿弥陀如来を本尊として開基され、駒ヶ根市中沢常秀院四世外山梵教大和尚を開山とする。火災のため一切の古文書消失するも、天保六年十五世綱全代に現地に移転したものと思われる。辰野一眺の景勝地にあり、現住職は、二十二世に当る。最近、堂宇伽藍の大改修を行ない、面目一新す。

略縁起
15: 功徳山 傳福寺(浄土宗)
長野県上伊那郡辰野町下辰野新屋敷
35.98662, 138.00041

元和三年正月守誉上人開基。
縁結び、ほたる寺として、近来とみに参詣者が増加している。

略縁起
16: 龍光山 昌福寺(真言宗)
長野県岡谷市川岸駒沢
36.02409, 138.0191

中興開山憲瑜より現在二十世であり、寛文十一年より今日に至る。武田勝頼の安堵状一通と、諏訪氏、大阪の出陣記念の枝垂桜あり。諏訪三名石の一つと言れる竜の巻石あり、天竜川よりのもの。文化十三年鋳造の梵鐘は供出するも、昭和二十二年再鋳す。東京都中野区向台より、疎開学童五十八名二年間この寺で住す。

略縁起
17: 城向山 照光寺(真言宗)
長野県岡谷市本町2-6-43
36.05972, 138.04302
公式サイト

開山開基未詳。応永二年五月憲明法印が再興。文明年間に今井兵部兼貫が再建し、享徳元年紀州金剛峯寺の末寺に加わり、下社神宮寺の門末寺となる。室町時代には十二坊を擁す大寺であった。
明暦二年に現在の寺山を寺域に定める。本尊は正徳三年五月造立。脇本尊胎蔵界大日如来は明応三年七月康忠作。ともに市文化財指定。

略縁起
18: 白華山 慈雲寺(臨済宗)
長野県諏訪郡下諏訪町下原
36.08266, 138.08367

鎌倉時代、五山文学の記録により有名な古刹。開基は諏訪の郡主金刺満貞、開山は一山一寧国師である。創建は正安二年(1300)である。中興開山は武田信玄の伯父天桂玄長禅師(当山㐧七世)である。山梨、塩山市にある恵林寺の㐧十九世で、当山㐧二十世はかの有名な快川国師である。尚、天文、亨保、文化と三度の火災に遇い什宝はほとんど焼失。

略縁起
19: 海岸山 神宮寺(真言宗)
長野県岡谷市本町照光寺内
36.05989, 138.04307

先手観世音は諏訪七観音の随一。諏訪神社下社本知佛として『諏訪明神縁起絵詞』にも見えており、行基作と伝えられる。また、武田勝頼の念持仏であったということである。
明治維新の廃仏毀釈のとき、照光寺が神宮寺唯一の末寺なるをもって移安される。毎年七月十日 八月十七日が例祭。

略縁起
20: 愛宕山 地蔵寺(曹洞宗)
長野県諏訪市岡村2-12-16
36.0434, 138.12703

当山は元禄二年諏訪藩祈願所 高島城鬼門除寺として、㐧三代藩主諏訪忠清公が開基し碩学高徳な露山恵白禅師を請して、中興開山せられた禅刹である。庭園は開創当時の造園で池泉廻遊兼鑑賞式、清水の飛瀑は恵白禅師の代表作に推奨され、市文化財名勝に指定されている。

略縁起
21: 法国山 阿弥陀寺(浄土宗)
長野県諏訪市唐沢
36.05166, 138.13683

当山は文禄四年(1595)高島城下下桑村の郷人、河西浄西という念仏行者が六十一才の折開基し、後四年、慶長三年尾張の国海辺の里人、禅誓上人が諸国修行の途、諏訪を訪れ、開山となられた。開基当時は堂宇はなく、裏山の一坪程の岩窟に十一面観音を祀り念仏不断の道場とした。順次諸堂宇の造営が始り、現住二十二世代ほヾ完成の域に達した。

略縁起
22: 岩窪山 観音堂(真言宗)
長野県諏訪市四賀桑原
36.028, 138.131

桑原城主裏鬼門 開基不詳。

略縁起
23: 鼈沢山 仏法紹隆寺(真言宗)
長野県諏訪市四賀桑原
36.02113, 138.13854公式サイト

大同二年八月二十八日坂上多村麿公開基。弘仁三年弘法大師真言の学問所として改宗諏訪明神の別当寺なり。現地に移築されたのは永禄二年尊朝法印代、高島城主頼忠公五拾石を寄進し依頼代々この城主継承し領主の祈願寺となる。平安、鎌倉室町戦国に至る古文書百点を蔵し、県内希にみる古刹で徳川時代の古文書は未開の侭蔵す。

略縁起
客番: 神変山 神宮蜜寺(真言宗)
長野県諏訪市四賀桑原 佛法紹隆寺境内
36.02108, 138.1387

諏訪大明神本地普賢菩薩は白雉三年聖徳太子の御造立。弘仁三年弘法大師佛法紹隆寺に留錫して嵯峨天皇勅願により神宮寺を創建。由緒深き普賢菩薩を諏訪大明神御本地となし普賢堂を建立。慶応四年六月神仏分離令の法難により伽藍破却。本尊は仏法寺に移管せられた。昭和五十二年普賢堂建立。百十年目に神佛一体の根本道場とする。

略縁起
24: 栗林山 永久寺(曹洞宗)
長野県諏訪市湖南田辺516
36.01023, 138.11304

栗林山永久寺は諏訪湖南にあり、曹洞宗である。本尊は釈迦尼如来胎童子安観音で弘法大師の作といわれ承応年中(1652)昭峰臨渓大和尚によって開創されたが、その後荒廃に帰したままであった。享和二年(1802)三の丸家老千野兵庫は母春光院の菩提を葬るため永久寺を再建した。開山は頼岳寺十三世提山見全大和尚である。

略縁起
25: 鷲峰山 法華寺(臨済宗)
長野県諏訪市中洲856
35.99742, 138.11984

当山は往古より諏訪明神の宮寺として、同神社後方に位置し、寛元四年大覚禅師を開山として臨済宗となる。天正十年信長が勝頼征伐の時、この寺を本陣とし、論功行賞を行った。又忠臣蔵で知られた吉良上野介の養嗣子義周公の墓がある。明治維新の際、神仏分離の命に接し、不幸廃佛毀釈の危に遇ったがのち設備を復興して今日に至る。

略縁起
26: 松尾山 善光寺(真言宗)
長野県諏訪市湖南南真志野4890
36.00675, 138.09728

大化元年(645)の創建。白雉二年(651)本田善光が白膠木て彫刻された一光三尊阿弥陀如来がご本尊である。このため善光の名をとって善光寺と称し、当山本願開基の祖としている。江戸初期までは天台宗であったが、貞治三年より永徳三年まで高野末、後智山末となる。現在の堂宇は延享四年再建のものである。

略縁起
27: 風穴山 龍雲寺(曹洞宗)
長野県諏訪市湖南南真志野
36.00933, 138.09283

龍雲寺創建のことは不詳。諏訪家諏訪満隣公開基となり、天正年間一草庵を造り、問碩という僧が住し、離山・思牛・本龍和尚等歴住せしとの口伝もあるいも詳にしがたい。
寛文年間頼岳寺三世愚明祥察大和尚を勧請開山として現在十九代に至る。裏山に入ること十数間の岩穴あり、これにより風穴山の山号を称するに至りしとのことなり。

略縁起
28: 瑞雲山 江音寺(臨済宗)
長野県諏訪市豊田有賀
36.01888, 138.08192

有賀郷は諏訪藩家老職千野靭負源頼房の知行所であったので、知行所内の大安廃寺を興し、千野家の菩提所とし、温泉寺開山太嶺玄末禅師の法弟坎室宗革禅師を迎え、瑞雲山江音寺と改めた。時に慶長七年であった。坎室宗革禅師を中興開山とし、開基は千野頼房で法号を江音寺殿宝巌剣大居士という。

略縁起
29: 竜光山 観音院(真言宗)
長野県岡谷市湊小坂
36.03517, 138.06875

本尊十一面観音は、その昔、漁夫の手によって湖底からあげられ安置されたものといわれ「びく」の形をした台座に半伽座されております。開山は嘉禎年間といわれ、堂の前に樹齢千二百年以上といわれる柏槇の大樹が今も生きながらえております。山門を入ると樹齢六百年以上といわれる椹が数十本並木として立ち並んでおります。

略縁起
30: 妙雲山 髙徳寺(真言宗)
長野県上伊那郡辰野町平出
35.98487, 138.00528公式サイト

千二百年前創設

略縁起
31: 佛谷山 見宗寺(浄土宗)
長野県上伊那郡辰野町平出下町
35.9813, 138.00251

永禄元年教誉上人の創建。宝永三年、明治元年の二回火災にあう。楼門は亨保四年建仁寺流の棟梁平泉伝左衛門の作。昭和五十一年辰野町文化財の指定を受ける。
九品仏堂は高遠藩主内藤大和守が文化十四年建立し先祖供養のため三体の阿弥陀佛像と同家の位牌を安置。現在はこの堂に閻魔大王像と葬頭河婆像を併祀。

略縁起
32: 松月院 毘沙門堂(曹洞宗)
長野県上伊那郡辰野町沢底山寺
35.97509, 138.01203

当院は建久年間の創立、往古の所在地は山寺山と称する山頂、俗に堂平という所にあり旧跡として縦横七間余に亘る礎ありと、毘沙門天の石廟今尚存せりと聞く。永禄年間火災によち移転、其の後妙本という僧により今の堂宇が建立さる。幾度かの修復改造により今日の面目を存している。等身大の本尊毘沙門天は余りにも有名である。

略縁起
33: 龍池山 真金寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡辰野町赤羽六二一
35.96543, 138.0048

木曽義仲の臣樋口次郎金光の遺子左近兼重が今より七三四年前、父の菩提を弔はんがため一宇を建立、自ら開基となり近くの五反田の地に内現山真金寺を建立、当時天台宗であった、其後臨済宗に変り、四二九年前高遠町勝間龍勝寺七世等俊和尚が曹洞宗に改め開山となる。災害に逢う毎に移転を重ね現在は二十一世、昭和四十六年改修一応面目一新す。

略縁起
34: 知久沢山 日輪寺(真言宗)
長野県上伊那郡箕輪町南小河内
35.93448, 138.00395

創立は建久元年八月と傳えらる。開山願行上人。知久氏の祈願所として創建。開基知久信貞入道行性真人。弘化、慶応、明治と三回にわたり火災に遇い、旧記古文書焼失す。明治に至るまで御朱印をいたヾいていた。知久氏の居城跡附近にあり。

略縁起
35: 野沢山 常前寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡辰野町樋口
35.96172, 137.99902

不詳であるが既に元禄年間札所となり、本尊を中心に脇仏観音像と共に代々庵主が守り信者の道場として部落の集会場として二十余坪の建物で、年あり月あり、珍しい十王の石仏あり。
爾来老朽甚しく昭和五十二年九月總意により鉄骨の小堂宇に新築入仏、礼拝施設とする。

略縁起
36: 西光山 無量寺(真言宗)
長野県上伊那郡箕輪町北小河内
35.94637, 138.00003
公式サイト

阿弥陀如来尊像は桧材を用いた寄木造にて像の高さが三尺七寸八分(1.15m)胎内銘によると仏師覚有永範の二人の僧と、藤原氏源氏矢作市等三十四人が発願寄進したものである。往昔より霊験あらたかなるが故に善男善女信仰厚く、昭和九年十一月国室(国宝)に指定、戦後昭和二十五年八月重要文化財に指定、火災盗難防湿などの点で収蔵庫に安置されている。

略縁起
37: 法華山 普済寺(臨済宗)
長野県上伊那郡箕輪町南小河内
35.93298, 137.99972

開創は不詳。当時は法相宗にて開山は円聖上人といわれる。開基源三位頼政仁安元年五月の建立。頼政公直筆の般若心経、開基記念の石碑一基現存す。中興山陽天和尚より臨済宗となる。開山以来二十二世なり。

略縁起
38: 大雲山 養泰寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡箕輪町木下
35.90084, 137.98269

天童比丘九百年前、庵を結びし聖地に、元和三年小県郡信綱寺三世通山京察大和尚開山す。本尊釈迦牟尼仏なり。寺号は昔手良中坪に「大洞山養泰寺として由緒深き壮大な寺あり。兵火にあいて焼失、その名を譲り受けたるなり。難をのがれて残りたる十一面千手観音三十三観音を堂宇と共に贈らる。」と。観音の慈悲ありがたきかな。

略縁起
39: 巣鶴山 長松寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡箕輪町長岡
35.92224, 138.0068

応永四年鎌倉藩士鈴木三郎長秀開基にて、鈴音山寺長秀寺創立、真言宗に属す。文明二年天宙梵清和尚により曹洞宗に改宗。永生十一年春越青斧和尚法地開山となり、十世大渕狐舟和尚に至り、宝永六年本堂再建の際、老松に鶴の宿る瑞祥あり、巣鶴山長松寺と改称。以後法系相続し現在は十七世代となる。

略縁起
40: 殿島山 光久寺(曹洞宗)
長野県伊那市東春近殿島
35.80782, 137.95927

光久寺は昔天台宗の寺院で、西春近エゲノ沢にあり、現在でも寺屋敷と称し、寺有地となっている。現在は記念碑を建ててある。
当寺は大金金剛院関白持通公の祈願所として、四脚門及び築寺等を寄附された。現在も二条公家の位牌と徳川家、内容家の位牌を安置している。二条公よりの下賜の品々は大正六年の火事で焼失した。

略縁起
41: 青雲山 澄心寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡箕輪町三日町
35.90074, 138.01029
公式サイト

開創、正治元年雪江和尚(約800年前)改宗創立、文明三年(約500年前)開山、学叟楚文開基、京極治部太夫源高重朱印十三石(慶長六年より)元禄十三年全殿堂焼失、後日諸堂再建されたが、明治六年山津波(蛇抜け)のため禅堂位牌堂宝蔵等を失なう。現存境内地2,341坪、伽藍本堂81坪、庫裏玄関158坪等、山林30町歩、現住職30代。

略縁起
42: 大洞山 清水庵(曹洞宗)
長野県伊那市手良中坪
35.85497, 138.03322

清水庵は往昔大福山養泰寺と称し現在地より南の古清水の地にあって、本尊は京都清水寺、播磨回清水寺の本尊と共に同一木より彫刻した尊像の一つと伝えられ、天正十一年織田信忠の兵火にあい現在の地に移る。寺号は木下の養泰寺が天台宗より曹洞宗に改宗の際譲渡し、この観世音安置の寺を大洞山清水庵と改めたと伝えられている。

略縁起
43: 安楽山 吉祥寺(曹洞宗)
長野県伊那市美すゞ笠原
35.84466, 138.03673
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安楽山吉祥寺は、享禄二年(1528)開山監大和尚にて、其頃は臨済宗建福寺末であったが後曹洞宗峯山寺末となる。
後曹洞宗となり竹岩和尚を中興開基とす。永禄元年、往昔中興以前は笠原釣根附近に在り、七堂伽藍を備えていたと伝えられ附近に坊門、寺屋敷仏堂等の地名を残している。

略縁起
44: 富岡山 真福寺(真言宗)
長野県伊那市美すゞ芦沢
35.84165, 138.04187

当山は元笠原区天神山の西北に有り今より七百有年の星霜を経て今日に及ぶ。真福寺は代々笠原城の祈願寺として栄えた永生年中に笠原城落城するや高遠の近き芦沢権現沢の丘上景勝の地へ移、高遠城の祈願寺ともなる。本尊は子安地蔵尊延命地蔵尊、阿弥陀如来、歓喜天、不動明王、三宝荒神等也現在では一月二十三日の御日侍(荒神様、厄除開運、交通安全)等で有名である。

略縁起
45: 親縁山 満光寺(浄土宗)
長野県上伊那郡高遠町西高遠
35.83824, 138.05936

天正元年浄土宗の名僧岌往上人によって開創された。本尊は鎌倉時代の名匠仏師快慶作の一刀三礼阿弥陀如来来立像である。江戸中期十四世遺誉上人の頃、伽藍の再建に伴い善光寺を模して造営されたことから伊那の善光寺と称される様になりました信濃の科寺(しなでら)と呼ばれ、本尊より觸頭職を与えられ宗門の録所として宗勢に乗じた。歴代高遠藩主の菩提寺である。

略縁起
46: 医王山 香福寺(真言宗)
長野県上伊那郡高遠町長藤的場
35.83784, 138.06327

天平十七酉年年行基菩薩の開基、薬師三尊を以って本尊となす。
天正十年織田氏の兵乱に遇い焼亡す。
平安末、真言宗所属となり、大日如来を本尊となす。以前開創寺は、法相宗に属し、三論華厳の教学をも研修する兼学の道場なりしと言う。

略縁起
47: 稲荷山 樹林寺(真言宗)
長野県上伊那郡高遠町東高遠
35.83367, 138.06954

慶長六年保科弾正忠正直公、上総国多胡より、夕顔観音なる霊仏をこの地に安置して、樹林寺を開創、高遠藩の祈願寺となる。
旧藩主内藤公、現在の本堂を建立し、本尊を新たに大日如来として今日に至る。

略縁起
48: 六道地蔵堂(曹洞宗)
長野県伊那市美篶上川手六道の森
35.84453, 137.99814

六道地蔵堂の由来は、人皇七十七代後白河法王保元二年平清盛、仏師小野篁に命じて六体の地蔵尊を彫刻せしめ京都六波羅に安置して礼拝供養した、悪逆無道、然も栄華の限りを尽くした良心の呵責に対するせめてもの償いでもあった。平家滅亡の直前寿永二年八月六日、源氏擡頭し世相漸く騒然となるに及びこの六体の地蔵尊を全国の六要所に配置、これを庶民に信仰させ民心を統一せんとして此地に一体を配置した。そして平家の勢力固めに努めた。

略縁起
49: 雲居山 龍勝寺(曹洞宗)
長野県上伊那郡高遠町勝間
35.80951, 138.06503

龍勝寺は、勝間部落から古杉のうっ蒼と繁った参道を2キロ余り登った所、深閑とした谷合にある。本寺は越前の慈眼寺であり御開山は慈眼寺十世雪窓一純(文安六年526年前)である。樹令500年ともいわれるヒガン桜の古木が残っており、九十九谷という高野山と同数の谷を数えるともいわれ、野趣深く人里離れた幽遂な仙境に入ったという思いがする。

略縁起
50: 竜東山 阿弥陀寺(曹洞宗)
長野県伊那市中央区古町
35.84123, 137.96471

「建保五年爪ヶ先(現上伊那招魂社境地)城主春日宗十郎鎌倉より奉持して城内に之を祀りしに創まり爾後寛文年間高遠城主鳥居左京亮忠則仏供免として下田六畝七歩を寄進して再興せしむ(高遠記集成の内箕輪記に據る)」「享和二年六月高遠城主内藤大和守長好大工棟梁伊那郡沢底村有賀源作晴将に命じて改築せしものなり。」

略縁起
51: 大宝山 建福寺(臨済宗)
長野県上伊那郡高遠町西高遠
35.83802, 138.05659

城下町高遠西方にあり樹令4・500年の欅の大木に囲まれている。建長寺開山大覚禅師此地に来杖して創建する。武田信玄の帰依により五通の朱印状、高遠城主保科正直正光の黒印状がある。又武田勝頼母、正直、正光の霊牌と墓所がある。境内には仏足跡と名工貞治の石仏が41体ある。経蔵には鉄眼版一切経が納められている。

略縁起
52: 護法山 常円寺(曹洞宗)
長野県伊那市山寺区山本町
35.84322, 137.9585
公式サイト

開創応永六年、今から凡そ580年前、西山の内寺社平に創建。百余年を経て、文亀元年 境区古寺の地に移転再興、これより曹洞宗となる。開山 勅特賜 賢甫宗俊禅師。天正九年、五世造天弘宅大和尚の代に、現在地に移転再興。享和三年火災に遇い堂宇伽藍焼失。文化三年再建。戦後大改修を経て今日に至る。現住二十七世なり。

略縁起
53: 鳳来山 祥雲寺(曹洞宗)
長野県伊那市御園338
35.85176, 137.96781

この寺は天正二年伊那郡惣代官頭、御子柴六左衛門茂久により創建す。それ以後125年間常円寺末として鳳来山祥雲寺と号した。文化二年御園区大火の災にあい堂宇を焼失したため白山神社の拝殿を改修した、それまでは僧寺であったが文化九年再建し文化十年入仏式を行ない悦道鳳山尼以来尼寺となり今日に至る。

略縁起
54: 寶樹山 圓福寺(天台宗)
長野県伊那市荒井区上手町
35.84035, 137.95455

開基は恵心僧都、当初安養寺と称し、一条天皇寛弘二年の開山である。
伝、恵心僧都自刻の阿弥陀如来を本尊とする。
○慶長年間寺名を円福寺と改称す。
中興尊海法印以後十七代現董。
本坊蓮華院 本尊不動明王(荒井の不動尊)。
○武田勝頼朱印状(天正九年)
○比叡山 横川鶏足院直末証状。

略縁起
55: 種月山 長桂寺(曹洞宗)
長野県伊那市西町伊那部 35.83808, 137.95209
Facebook

開闢弘治元年十月、創立天正二年八月(1574年)、開山延宝八年(1680年)なり。創立後四代百余年を経て寺門衰亡廃絶に帰せんとする時峰山寺五世竹巌祖喬大和尚再興し開山となる。天保十一年(−)十一月二十六日伊那部宿大火で堂塔什器悉く焼失。天保十四年庫裏、安正二年本堂再建、戦後大改修し現在に至る。境内に元札所三十三所堂(伊那部にあるも明治初に廃す)の観音を福寿観音堂として再興す。現住二十一世なり。

略縁起
56: 中越山 法音寺(曹洞宗)
長野県伊那市西春近表木
35.78264, 137.94537

当時開基は玄破和尚宝徳元巳年(1449年)
往古は天台宗比叡山の末派にして相応の伽藍本堂斉堂僧堂山門惣門等七反九畝二八歩の境内を持ち大伽藍を有していたが、明暦年中出火し伽藍残らず焼失、其の後寛文年中高遠峰山寺四世岫拂良雲和尚当寺を再建峰山寺末寺となる。明和七年再度火災にあい伽藍等焼失安永八年現在の寺が建立された。

略縁起
57: 松林山 白心寺(浄土宗)
長野県上伊那郡宮田村仲町
35.76652, 137.94037
Facebook

当寺往昔小田切に在り罹災し其の後字田中に引越し、天正八年創立開山は用蓮社専阿重誉上人と称す。爾後寛文七年焼失に依り中興は湛誉林察再建し、其の後罹災(年号不詳)亨保十二年諦誉上人再建し其の後弘化四年罹災し嘉永三年二十三世摂誉誠戒上人現在の地に移転し、現今の堂宇を再建すると雖も旧記の存する無きを以って其の詳を得ず。

略縁起
58: 松戸山 熊野寺(天台宗)
長野県上伊那郡宮田村仲町白心寺内
35.75974, 137.9172
(寺社境内は中央高速道用地となり発掘調査された。詳細はリンク先参照。)
宮田村インターネット博物館

平安末ないしは鎌倉時代、神仏混淆の時代背景の中で、薬師観音両本地仏を安置した。熊野権現信仰の台密修験的性格の強い信仰または修法の場であった。伊那地方の天台五山の一つともみられている。秘仏開帳の祭典は近隣の崇尊厚く賑わいを見せた。

略縁起
59: 宝積山 光前寺(天台宗)
長野県駒ヶ根市赤穂光前寺
35.73487, 137.89551
公式サイト

光前寺は、清和天皇貞観二年(860)本聖上人が不動明王を御本尊として開基され、本堂、三門、三重の塔、経蔵、仁王門、重要文化財の弁天堂等を備え、県下屈指の大寺であり、庭園及び境内全域が国の名勝に指定されております。礼所本尊聖観音菩薩は、礼所新設当時の元禄年間の唐銅像で、客殿に安置されております。

略縁起
60: 末分山 西蓮寺(ー)※廃寺 ※付近
長野県駒ヶ根市赤穂南割北方
35.72411, 137.9158
※おおよその場所を八幡原集会所とした。

西蓮寺は、古くは天台宗光前寺の末寺だった様ですが、創立年代は不詳、西村家の持堂として近隣の信仰をあつめておりましたが、60年程前焼失、40年程前西村家自力により再建今日に至る。本尊は木造聖観音にて御丈約30糎余。

略縁起
61: 大徳山 円通寺(元天台宗)※廃寺 ※付近
長野県駒ヶ根市赤穂南割
35.71856, 137.91536
※おおよその場所を横前いきいき交流センターとした。東に豪農だったと思しき民家(横山家?)がある。別称「横前のお堂」。

元天台宗の末寺、創立年代等は不明なるも、古く当地豪農横山氏発願により観世音菩薩を祠り堂宇を建立したものと思われます。以来横山氏及び近村の信仰をあつめておりましたが、明治以後廃寺となり、横山家の持庵として今日に至る。本尊及び厨子に中世の様式を残しているといわれている。

略縁起
62: 鶏頭山 安楽寺(浄土宗)
長野県駒ヶ根市赤穂上穂
35.73572, 137.93179
公式サイト

天正元年、還夢上人 上穂町寺屋敷に当寺を建立、正徳五年 伊那谷未曽有の大雨のため流失、翌 享保元年 上穂町西裏へ移転。文化六年焼失。「再度の災害にて、古物記録一つも存するものなきに至り嘆惜に堪えざるなり」と、文化八年、現在地に㐧十五世 観誉上人奮起し、檀越共に力を尽し、本堂・庫裡・経蔵・山門・鐘堂を建立し、中興となる。現在 㐧二十三世。

略縁起
63: 田沢山 正音寺(天台宗)※廃寺 ※付近
長野県駒ヶ根市南下平中央
35.73208, 137.96119
※「下平の中央部から、信号機の辻を南に入り、約300メートル」より推測

鎌倉時代に築城されたといわれている赤須城(駒ヶ根市赤穂)の武将、梅ノ木左衛門尉に関連のあった寺と言い伝えられている。古くは、赤須城の北西、現在地名として残っている「梅ノ木」にあったとい伝えられ、梅ノ木氏滅亡後、田沢の坂尻へ移転、更に、大正三年に現在地へ移された。現在、堂宇の管理は、松崎弥寿夫が行っている。

略縁起
64: 無量山 善法寺(臨済宗)
長野県駒ヶ根市中沢下割新宮
35.72821, 137.98292

開基 広済慈眼(大永元年)
開山 東谷(文禄三年)
旧位置 宮の前。火災 宝暦五年及明治三十五年の2回。それが原因か衰微。然し本尊は初期のものと考えられ、禅寺には珍らしく、阿弥陀如来であることについて、いろいろ考えると興味がもてる。

略縁起
65: 広善山 蔵沢寺(曹洞宗)
長野県駒ヶ根市中沢中割
35.71673, 137.99504
Wikipedia

応永年中、高見城主、倉沢但馬守開創、香華院という。後、延徳元年蔵沢寺と改称す。弘治二年武田氏により、高遠城にて切腹させられ、妻、高子、寺門を現在地に移転す。慶長年中、倉沢氏退居のため荒廃せる寺門を、三州津具村 金竜寺五世来り、寺門を整備し、中興開山となり今日に至る。

略縁起
66: 白華山 桃源院(曹洞宗)
長野県駒ヶ根市中沢本曽倉
35.72943, 137.99041

天文十一年、武田信玄の姉、大通寺殿福山芳聚大姉により、白華山 大通寺を開基。桃源院は、はじめ、大通寺の門葉であったが、武田氏没落後両寺の衰㾱をみて、慶長年間、両寺を併合して、白華山 桃源院と称して現在地に造立する。依って寺紋に、武田葵紋を用いている。

略縁起
67: 高林山 京宗寺(-)
長野県駒ヶ根市中沢原
35.72944, 137.99028

詳細不明なるも、桃源院の門葉と聞く。

略縁起
68: 永覚山 栖林寺(曹洞宗)
長野県駒ヶ根市東伊那栗林
35.75306, 137.985

特に記することを識らず。

略縁起
69: 法性山 大蔵寺(臨済宗)
長野県駒ヶ根市東伊那伊那耕地
35.74469, 137.97756

開山 笑岩宗誾(1577年)
伊那森神社の北側にあって、それを当山鎮守として供養していた。その地続きを、徳川末に開墾し、明治八年に寺領となったのは、耕地の信仰の中心としていたからなのか。本堂内の守屋貞治作 地蔵尊は、延命の験ありと信仰を集めていたが、今は美的に鑑賞されている。

略縁起
70: 神寶山 善福寺(臨済宗)
長野県駒ヶ根市東伊那6174
35.75428, 137.96573

当寺は宝永年間火災に遇い堂宇古文書等焼失す。印州和尚文政年間入佛式。続いて蓬山和尚庫裡改築。その頃より本尊観世音菩薩をとりまいて、裏山500メートルに観世音菩薩の石佛33体を安置し、安泰を祈願する。毎年4月十八日に例祭。

略縁起
71: 福徳山 大正寺(天台宗)※廃寺
長野県駒ヶ根市上赤須
35.71514, 137.95484

創立年代は不詳なるも、江戸時代までは、天台宗光前寺の末寺の一つとして住職も常住していたこともある。現在は地区の有志約50戸により管理され、お堂の屋根替(茅葺)修繕等を行い、毎年四月八日に光前寺住職により祭典を行っている。

略縁起
72: 石上山 聖徳寺(浄土宗)
長野県上伊那郡飯島町田切
35.69535, 137.93225

当寺は、元、田切北河原字太子の地にあり、聖徳太子自作の尊像を安置し来った仏堂を、寛永年中、相誉了頓が興して一寺となす。正徳五年の洪水により流失、よって亨保二年現在地に移り堂宇を再建せしも、弘化二年火災に遭い全焼、観音堂も失う。現本堂は、明治三十八年、山門は昭和三十六年、庫裡は昭和四十九年の建築なり。

略縁起
73: 尾崎山 観音堂(浄土宗)
長野県上伊那郡飯島町田切中平日向
35.69245, 137.94683

開創は、貞享年中と思われる。
中平部落の護持のもとに、庵主住持し来りしところ、昭和十七年 宗教団体法施行に伴い、公衆礼拝施設となり、昭和三十五年九月、旧堂宇を縮少現礼拝堂を建つ。

略縁起
74: 医王山 真光寺(真言宗)
長野県上伊那郡飯島町田切南田切
35.68839, 137.94496

元禄五年創立、高野の北室院の所属の寺院である。開山良海和上、本来祈願寺であった。

略縁起
75: 石鎚山 感通院(臨済宗)
長野県上伊那郡飯島町石曽根
35.68263, 137.93298

貞享元年西岸寺中興開山太極和尚を開山として、物源和尚が創建、聖観世音菩薩を本尊として安置した。木造円後背付厨子入で、この厨子内に高さ3.5センチの金造りの像を安置された。これこそ往昔の御像であるが、明治十三年二月堂宇が全焼し其の際の火力によって変形した。堂宇は明治十五年再建して今日に及ぶ。

略縁起
76: 瑠璃山 東谷院(臨済宗)
長野県上伊那郡飯島町岩間
35.68429, 137.90803

西岸寺中興開山太極和尚延宝六年八月創立して本尊薬師如来を安置す。寺伝によればもと熊野社前にありその後、延宝年間薬師畑に三間四間の堂宇を建立して移り、其の後現在の地に移した。天保年間、日光菩薩月光菩薩並に十二神将の脇佛を祀り、現在の堂宇は大正七年に造営したものである。

略縁起
77: 祥雲山 圓通庵(臨済宗)
長野県上伊那郡(飯島町)田切南割
35.68988, 137.9419

西岸寺中興二世物源和尚が貞享元年八月創建して、千住観世音菩薩を本尊として観音三拾弐仏を脇仏としたが、のち脇仏は紛失して今は無く本尊仏のみである。

略縁起
78: 海量山 慈福院(臨済宗)
長野県上伊那郡飯島町七久保北街道
35.65958, 137.90549

延宝六年満沢氏が創建、西岸中興太極和尚を請じて開山とし、其の後の明和元年十二月再建し俊竜和尚を中興開山とし、爾来村有に帰し信徒を以て法燈を護持している。

略縁起
79: 威光山 瀧泉寺(天台宗)
長野県下伊那郡松川町上片桐
35.62046, 137.89129

中善院は延宝六年建立、安永二年失火炎上、翌年再建、明治四年廃寺、滝泉寺に仏像安置、昭和六年信者捨身の行を修すること七年元安福山中善院間口二間、奥行三間半の御堂を滝泉寺境内に再建す。本尊十一面観世音外三十三体あり、失火の際さがりの川にて沈みて火中をのがれて出現し給う事不思議千万有難事と殿様参勤交代途中下馬し参拝なされしという。

略縁起
80: 日照山 華厳寺(天台宗)
長野県下伊那郡松川町大島名子
35.58562, 137.90722

開基年代不詳なるも、本尊薬師如来は、吉野朝時代、多聞天王・釈迦立像は平安時代の作にして、近郷では最古の寺院と思われる。現在地へは、明和七年に移転せしも、これより300メートル程離れた以前の土地は、薬師堂前、薬師畑等の小字名の広い土地がある。礼所本尊は、十一面観音にして、寺の本尊とは別である。

略縁起
81: 中尾山 林叟院(曹洞宗)
長野県下伊那郡松川町古町
35.58662, 137.91276

大島城主十一代為継、林叟庵主となり、山号を白龍山と称す。開創応永年間、開基林叟院殿前丹州虎公粛山居士。天正十年二月、織田信忠の軍により、大島城と共に焼失す。天正の末、飯田城主の帰依により飯田へ移転、白龍山専照寺と称するも、郷党の信心やみがたく、文禄元年現在地に円通山林叟院として復興、後、中尾山と改む。

略縁起
82: 観音堂(臨済宗)※付近
長野県下伊那郡松川町上新井
35.60353, 137.91758
※「㐧81番林叟院より国道153号線を北に2キロ」の記述より推定

不詳

略縁起
83: 鳳雲山 瑞応寺(臨済宗)
長野県下伊那郡松川町上片桐3478
35.61531, 137.91233

今から八百余年前、舟山城主 片桐氏により創建され、後年 文明十一年 城主片桐小八太夫景重、京都花園正法派雪岫大和尚を請し開山となし、妙心寺派に属し、爾来今日まで、498年となる。

略縁起
84: 那智山 静音寺(臨済宗)
長野県下伊那郡中川村片桐南田島
35.61792, 137.91662

本尊、観世音菩薩、創立、大永二壬年、開山、瑞応寺一世雪岫瑞秀和尚、享禄巳丑年瑞芳和尚が寺の充実に務めたが、天正十年織田軍の侵攻により舟山城片桐氏が没落、それを機に法燈も消えたと伝えられている。後享保十六年八月、瑞応寺九世法孫蘭禅和尚が再燈、中興の祖となり今日に至る。

略縁起
85: 福寿山 玉宝寺(臨済宗)
長野県下伊那郡中川村片桐小和田
35.63982, 137.92866

小和田部落中央、俗称三角山の麓に東面し、天竜川と赤石山脈一望の佳地にある。開創不詳なるも、天正年間以前と思われる。天正十年織田軍の兵火をこうむり一たん中絶しも、享保八年七月二十九日、瑞応寺円成和尚中興となり、堂宇が復興された。現在は無住、瑞応寺住職が兼務。

略縁起
86: 善福山 祐源寺(臨済宗)
長野県下伊那郡中川村片桐横前
35.64841, 137.92417

本尊薬師如来を安置し、慶長元申年一月一日 創立といわれ、開山は雪岫和尚であるが、滅後中絶した。横前部落のほヾ中央、明石連峯を一望に収めている。天和二壬戌年五月八日、瑞応寺七世仙林宗実和尚が中興された。部落の東端、茶道と呼ばれる眺めのよい所が、祐源寺の跡ではないかといわれている。

略縁起
87: 醫王山 利生庵(臨済宗)
長野県上伊那郡飯島町本郷西岸寺内
35.65869, 137.93529

元西岸寺の東方2キロのところに在って、西岸寺越雲和尚に依り元禄十年に創建せられ、西岸寺に対して東方につき本尊に薬師如来を安置せり。台座には寛文九年と記入ありしより、仏像並に御堂型厨子及須弥檀はこの時の作と思われる。堂宇の腐朽甚だしき為め取りこわし、本尊薬師如来及び御堂型厨子は西岸寺本堂内に安置してある。

略縁起
88: 臨照山 西岸寺(臨済宗)
長野県上伊那郡飯島町本郷
35.65865, 137.93523
Wikipedia

弘長元年北条時頼の帰依により、境内地九千三百拾坪及除地高二拾石の寄進を受け大覚禅師を開山として開寺した。其の後、飯島城主の外護により隆盛となり諸山に列せられた。大覚禅師は観音菩薩の化身と言われ、よって観音菩薩を開山の本地仏として古来より安置され、御堂を「尋声閣」という。但し明治十九年焼失す。仏像は飯島町々宝に指定さる。

略縁起

🪷

御尊像解説

釈迦如来
釈迦は、尊んで釈尊、仏陀とも称されていて、仏教の開祖である。釈尊の根本仏教の要旨とするところは、人間は社会的階級差別がなく、皆、平等に解脱できるという人間平等の考えと、四諦八正道、無我の思想にある。
阿弥陀如来
無量寿命(はかり知れぬ寿命)と無量光明(はかり知れぬ光明)の二つの徳性を備えた仏陀ということで、救済仏信仰によって出現した仏であり、現在も西方極楽世界の教主として説法しておられるという。
薬師如来
東方浄瑠璃世界の教主とされる仏。人間のあらゆる病気を治癒し、寿命をのばすことを本願としている。左手に薬壺を持ち脇侍に日光・月光の両菩薩をさらに十二神将を従える。
大日如来
大日如来は、密教では最高至上の絶対的な教主として尊敬されている。この如来は、宇宙の万物を包む知恵と慈悲の表徴であって、常に万物をしてあるべきようにあらしめている全一者としての特性を持った仏である。
誕生釈迦仏
釈尊の出世から涅槃までを現した「釈迦の八相」の像のうちの一つである。誕生したばかりの釈尊が、四方に七歩あるいて、右手をあげ天を指して「天上天下唯我独尊」と大声で言われたという。
文殊・普賢菩薩
文殊・普賢菩薩ともに釈迦如来の脇侍である。文殊菩薩は、大乗仏教の悟りの智恵を象徴する菩薩とされて知恵第一の位にある。普賢菩薩は、文殊菩薩の弟で、仏さまの中で、一番怜悧な賢い方であるとされている。
聖観世音菩薩
最も代表的な観世音を聖観音と呼んでいる。阿弥陀如来は来世で救済されるが聖観音は、現世であらゆる不幸から我々を守り、幸福を授けてくれる慈悲深い菩薩として、広く一般大衆に信仰され親しまれてきた。
日光・月光菩薩
薬師如来の両脇侍として、そのお姿が見られる。日光菩薩は、あまねく宇宙を照らし、無限の徳を顕している。月光菩薩は、月が清浄な光を放つと同じように、一切の衆生を導き、解脱させてくれるという。
十一面千手観世音
この観音は一切の衆生を救い、利益を与えるには、普通の姿では偉力がないため頭部に十一の顔を現し、手が千本、眼が千個の変化観音として、救済される範囲が広大なことを表している。
不動明王
密教の五大明王の一尊で、大日如来が一切の悪魔を降伏せんがために変化身とされている。憤怒身の勇猛無比なことを表している。
毘沙門天
四天王のうち多聞天は、一般に毘沙門天の名で呼ばれ、四天王中で一番人気がある。釈尊の道場に在って、常に説法を聞いた故に、多聞と名づけられたという。仏法に帰依する人々を守護する護法神となっている。
韋駄天
走力に優れ、常に邪神を消除するところから、勇猛な武人の典型となっている。性が聡明で、行状は極めて清浄であり、一切の欲を離脱していたため、親しく釈尊から招かれて仏法の外護の任にあたるように命ぜられた。
地蔵菩薩
釈尊が入滅してから弥勒菩薩が人間世界に出現するまでの無仏時代に、釈尊の付属を受けて、五濁の世界を救済してくれるとされている。忍耐強く、動かざること大地のごとく落ち着いておられるという。
薬師十二神将
「葉師経」を読持するものを守護する十二の神々で、薬師如来の分身とされ、またその化身でもあるといわれている。これら十二神は、四季を通じ、昼夜、休むことなく衆生を主語しているという。
金剛力士
金剛杵を持っているところから金剛の名がつけられたという。常に五百の夜叉を従え、いかなる悪魔鬼神をも近づけず、仏法を守護している。一般には仁王さんと呼ばれ、諸寺の大門の左右に一対になって造られている。

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あとがき

短い日時の間に編集したので、不備の点が多々あることをお許し下さい。当初は写真も載せたり、案内地図も添えたりと考えたのですが、時間の都合と、手軽で誰にでも求められるものということでこの様な小冊子になりました。五十二年七月実行委員会のメンバーが選ばれ、以後札所を検討して決定するまで相当の日時がかかりました。ともあれ、元禄四年より今日までの間のことですから、礼所寺院の栄枯盛衰も激しく、兼務寺院・無住寺院・廃寺など、特に明治期の廃仏毀釈による変動がめだちました。
しかし、無住寺院・廃寺などになっても、本尊様は今も尚ひっそりとお守りされているもの、又最近地区の人達の信心により復興されたもの等多々あり、礼所の札番もそれらの経緯によって脱落したり、復元したりなど数百年の歴史の間には。さまざまな出来事があったことが知られます。
よって委員会では、江戸版(元禄四年)、明治版(明治四十五年)、大正版(大正七年)、昭和版(昭和三十六年十一面観世音保存回発行)、などの札所を参照し、なるべく江戸版を中心にして、実行委員会によって決定されたものがこの札所である。
尚二十三番札所の次に「客番」として神変山神宮寺を入れました。江戸版では、二十四番が普賢堂となっていますが、明治版には岩窪山満福寺が入り、大正版では永久寺に変っています。しかし江戸版の普賢堂が実は今日の神変山神宮寺であり、最近由緒ある寺として復興しています。よって前後のいきさつにより客版として入れてある次㐧です。この様な例は外にもありますが、一応各々諒解のもと現在の札所として決定しました。
實行委員中より、更に事務局員として、法雲寺丹羽克秀師、長桂寺内藤英昭師、円福寺大沢玄澄師、の三師が選ばれ、それに会長常円寺角田宗道。副会長仲仙寺師田賢説師、同西岸寺平野泰道師が選ばれ、以上の六名により、ポスターの作製・集印帳・札所案内などの編集が任され、各位には多忙な法務をさいて非常なご苦労をわずらわし、一応この様な小冊子が編集されました。記して謝意を表す次㐧です。
尚札所各寺院、管理者には、資料提出にご協力賜りましたことを紙上をかりて御礼申し上げます。
ともあれ、六十一年目の御開帳が、有意義な成果をおさめられんことを念願して後記とします。

昭和五十三年四月吉祥日

編集者一同に代わって
角田宗道