宮崎勤事件―塗り潰されたシナリオ

80年代末の日本を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件。「今田勇子」の名で犯行声明まで出した犯人・宮崎勤の狙いは何だったのか。彼は本当に精神を病んでいるのか。事件には、驚くべきストーリーがあった。捜査資料と精神鑑定書の再検討、関係者への粘り強い取材が、裁判でも明らかにされない真相を浮かび上がらせる。事件は終わっていない。今も宮崎勤は自作自演の舞台に立ち続けている。

オタクなんていう言葉は生まれたのはこの事件からだったのではないだろうか...と思い出してみると、それ以上に矢張りこの事件そのものの異常性を強く感じ直さざるを得ません。 時はバブル景気。

この書籍では事件について新たな角度から掘り下げておりますが、未消化の部分も否めなく、読了後の後味は決して良いものではありませんでした。 主観を強くし過ぎると独り善がりになってしまい、客観が強過ぎるとお役所仕事的な報告書や白書のような無味乾燥たるものになってしまう。 そのバランスを上手にとる事がこの手合いの書籍の大事とするところかと私は思うのですけれど、この著者の場合、その隠蔽(主観を出そうとしながら客観で、とか、その逆とか)の度合いが最初は良いとしても、他の書籍を読むにつれて色褪せてしまうのが難。 こうなると2冊目3冊目どころか、最初の1冊目にすらも及んでしまうんです。 波及しまくるしまくる。 その位センセーショナルを前面に打ち出しているのかも知れませんが...。

冷めた目で読んでしまうと危険のような。

書庫を漁っていたらこの事件の関連書籍でこれが出てきた。

私自身はこの事件を、茶番の総集だと考えてきました。 犯人の茶番、捜査陣の茶番、精神鑑定の茶番、裁判の茶番。 それぞれの我が強い為、事件そのものは捨て去られてしまったのではないかと。 事件を利用して各々の「持っていきたい方向」へ周辺を巻き込みたいとしているのではないだろうかと思うんです。

その前では、どんな残虐な事件もお題目にしかならないのではないでしょうか。 起きてしまった事件は既に過去でしかなく、それを踏まえて云々という方が興味を惹くからなのかも知れません。 そういう心理操作のようなものが非常に色濃い事件(の後の動き)なんじゃないかなぁ。

でも、「・・・この事件をきっかけに」様々な新しい試みが為される事が多く、事件をネタにする向きは勿論否定されるべきではありませんが、全てにおいて受け入れるのでは無くて、そこで何が生まれたのかとしっかりと見据える必要が国民にはあるのではないかと考えました。

オタクなんて言葉、今ではすっかり定着したどころか死語の影すら見えてきそうなんですが、この言葉で十把一絡げにされ、全く異なる評価をされた人も多いかと思われます。 また、オタク「っぽい」なんていう回りくどい言い方なんかも、突き詰めてみれば「っぽい」は不必要だったりして、そうなると適用範囲なんてぐんと広がっちゃったりなんかしちゃうよねぇ。

ちなみにオタクという言葉以外での話を本当はしたかったのですけれども。