検証松本サリン事件報道―苦悩するカメラの内側

1994年6月の松本サリン事件は、第一通報者の会社員、河野義行さんに対する「報道被害」という重大な問題を引き起こした。事件報道に関わったテレビ信州のスタッフの苦闘の記録をまとめ、なぜ報道被害が生じたのか考える。

思い出してみるともう一昔以上も前の事件であり、この書籍が発刊されて7年という月日が経つのですけれども、報道は何が変わったのか私にはわからない。 特にテレビについては一層わからなくて、先日の秋葉原における通り魔殺人事件を受けての報道をとってみても、報道そのものはさておき、その質が不明過ぎる感が強くて。

例えば、こういう自己批判的書籍をテレビ局が出したにせよ最近では毒草を天ぷらにして食べちゃうところ報道するとかやってんじゃん、みたいな報道という行為に関しての双方(片方は書籍に準ずるもの)が非連続な関係なのにそれをくっつけて(連続させて)捉えてしまいがちなのは、明らかにマスコミに対する不信感が最初にある証左なのではないだろうか。 それともそんな関連のさせかたは私だけなのだろうか。

所詮書籍程度では自己批判そして総括などは出来ないのでありまして、その点では総括し切ろうという姿勢に一種の疑念のようなものを感じるのではありますが、それにしても書籍という狭い領域の中では充分にその役割を果たしているようにも見受けました。 このような書籍は、発刊されてすぐよりも、そこそこに時間が経過してから読む方が客観視出来ていいんじゃないかと思います。 事件から書籍発刊までのタイムラグ、そしてそれを読むまでのタイムラグは各々を冷静にさせるんじゃないかと。

本来報道は「苦闘」し「苦悩」するものなのだと思うけど、それが余りに「安易」に行われている事に、私は不振を抱くし質を問う。