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‘書籍’ カテゴリーのアーカイブ

ライン 4

2008 年 6 月 16 日 月曜日

オトナたるもの、仕事はビシっと決めるべし。そして、オトナたるもの、恋はスイートに甘えるべし。大人気作家・西村しのぶが描く、デキル女と年下彼氏の最高に甘くて、最高に素敵な関係(ライン)。大変長らくお待たせしました、第4巻、発売です。

っていうことで、なんかまー5年半も待たされちゃったんだけど、西村しのぶの「ライン」その4巻が無事(笑)発刊されましたこないだ。

多分、西村しのぶの作品で一番なんじゃないかっていう出来栄え。 思わず2回読み通しちゃいました。

でもあれなんだよなぁ、4巻目の最初のエピソードを読み終わってふと見るとクレジットが2003年っていうのもね、どうかなぁって思うけど。 それでもあんまり古臭さを感じないのが不思議であり、発刊を待つ甲斐性でもあるんですよねぇ。

検証松本サリン事件報道―苦悩するカメラの内側

2008 年 6 月 13 日 金曜日

1994年6月の松本サリン事件は、第一通報者の会社員、河野義行さんに対する「報道被害」という重大な問題を引き起こした。事件報道に関わったテレビ信州のスタッフの苦闘の記録をまとめ、なぜ報道被害が生じたのか考える。

思い出してみるともう一昔以上も前の事件であり、この書籍が発刊されて7年という月日が経つのですけれども、報道は何が変わったのか私にはわからない。 特にテレビについては一層わからなくて、先日の秋葉原における通り魔殺人事件を受けての報道をとってみても、報道そのものはさておき、その質が不明過ぎる感が強くて。

例えば、こういう自己批判的書籍をテレビ局が出したにせよ最近では毒草を天ぷらにして食べちゃうところ報道するとかやってんじゃん、みたいな報道という行為に関しての双方(片方は書籍に準ずるもの)が非連続な関係なのにそれをくっつけて(連続させて)捉えてしまいがちなのは、明らかにマスコミに対する不信感が最初にある証左なのではないだろうか。 それともそんな関連のさせかたは私だけなのだろうか。

所詮書籍程度では自己批判そして総括などは出来ないのでありまして、その点では総括し切ろうという姿勢に一種の疑念のようなものを感じるのではありますが、それにしても書籍という狭い領域の中では充分にその役割を果たしているようにも見受けました。 このような書籍は、発刊されてすぐよりも、そこそこに時間が経過してから読む方が客観視出来ていいんじゃないかと思います。 事件から書籍発刊までのタイムラグ、そしてそれを読むまでのタイムラグは各々を冷静にさせるんじゃないかと。

本来報道は「苦闘」し「苦悩」するものなのだと思うけど、それが余りに「安易」に行われている事に、私は不振を抱くし質を問う。

西村しのぶのライン第4巻、明日発売

2008 年 6 月 12 日 木曜日

公式サイトより、何とも急だけど明日発売なんだそう。 早速アマゾンで予約しましたぁ。

抜打ち侍

2008 年 6 月 10 日 火曜日

旗本随一の剣客正木弥九郎は、旗本の身でありながら勤王の志に遵行し、評定所目付役小俣堂十郎より幕府の覆滅をはかる危険人物として暗殺の剣客を送られる。剣魔・秋沢壮典は直新陰流の達人、弥九郎とのあいだに凄絶な死闘がくり返される。窮地を脱した弥九郎に思いを寄せる美貌の女たち。しかも弥九郎には彼自身も知らぬ重大な出生の秘密が隠されていた…。剣と愛と恋との痛快時代小説。他に「金四郎日和」「鼠小僧次郎吉」の傑作2篇を収録。

標題「抜打ち侍」、そして「金四郎日和」と「鼠小僧次郎吉」が収録されておりまして、標題が案外あっけらかんと終わってしまうのが不思議と言えば不思議。 短編とも中編ともつかず、盛り上がってきたぞー!っていうところでほんと「すんなり」スムーズに話が終わってしまうんです。 つまんなくはなかったけど読み終わって気が抜けちゃった。

しかしその後の短編「金四郎日和」と「鼠小僧次郎吉」がとても読み応えアリ。 後者はともあれ前者は遠山金四郎(金さん)で、まだ奉行になる前の浪人という設定で、市井で粋な活躍をします。 (実在の人物なんだけどそれではなくて)物語としての遠山金四郎のイメージそのまんまで、読んでてスカッとします。

そういえば遠山金四郎はそうだけど、鼠小僧次郎吉も実在の人物なんですね。 実際は義賊じゃなかったらしいけど、この物語ではその活動(?)の初期が書かれています。 小気味よいテンポですぐに読めちゃう。

宮崎勤事件―塗り潰されたシナリオ

2008 年 5 月 29 日 木曜日

80年代末の日本を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件。「今田勇子」の名で犯行声明まで出した犯人・宮崎勤の狙いは何だったのか。彼は本当に精神を病んでいるのか。事件には、驚くべきストーリーがあった。捜査資料と精神鑑定書の再検討、関係者への粘り強い取材が、裁判でも明らかにされない真相を浮かび上がらせる。事件は終わっていない。今も宮崎勤は自作自演の舞台に立ち続けている。

オタクなんていう言葉は生まれたのはこの事件からだったのではないだろうか...と思い出してみると、それ以上に矢張りこの事件そのものの異常性を強く感じ直さざるを得ません。 時はバブル景気。

この書籍では事件について新たな角度から掘り下げておりますが、未消化の部分も否めなく、読了後の後味は決して良いものではありませんでした。 主観を強くし過ぎると独り善がりになってしまい、客観が強過ぎるとお役所仕事的な報告書や白書のような無味乾燥たるものになってしまう。 そのバランスを上手にとる事がこの手合いの書籍の大事とするところかと私は思うのですけれど、この著者の場合、その隠蔽(主観を出そうとしながら客観で、とか、その逆とか)の度合いが最初は良いとしても、他の書籍を読むにつれて色褪せてしまうのが難。 こうなると2冊目3冊目どころか、最初の1冊目にすらも及んでしまうんです。 波及しまくるしまくる。 その位センセーショナルを前面に打ち出しているのかも知れませんが...。

冷めた目で読んでしまうと危険のような。

書庫を漁っていたらこの事件の関連書籍でこれが出てきた。

私自身はこの事件を、茶番の総集だと考えてきました。 犯人の茶番、捜査陣の茶番、精神鑑定の茶番、裁判の茶番。 それぞれの我が強い為、事件そのものは捨て去られてしまったのではないかと。 事件を利用して各々の「持っていきたい方向」へ周辺を巻き込みたいとしているのではないだろうかと思うんです。

その前では、どんな残虐な事件もお題目にしかならないのではないでしょうか。 起きてしまった事件は既に過去でしかなく、それを踏まえて云々という方が興味を惹くからなのかも知れません。 そういう心理操作のようなものが非常に色濃い事件(の後の動き)なんじゃないかなぁ。

でも、「・・・この事件をきっかけに」様々な新しい試みが為される事が多く、事件をネタにする向きは勿論否定されるべきではありませんが、全てにおいて受け入れるのでは無くて、そこで何が生まれたのかとしっかりと見据える必要が国民にはあるのではないかと考えました。

オタクなんて言葉、今ではすっかり定着したどころか死語の影すら見えてきそうなんですが、この言葉で十把一絡げにされ、全く異なる評価をされた人も多いかと思われます。 また、オタク「っぽい」なんていう回りくどい言い方なんかも、突き詰めてみれば「っぽい」は不必要だったりして、そうなると適用範囲なんてぐんと広がっちゃったりなんかしちゃうよねぇ。

ちなみにオタクという言葉以外での話を本当はしたかったのですけれども。