子猫を殺す時、自分も殺している(でも生き返って毎日新聞に寄稿する)
何が恐いかって、子供たちが真似しちゃって、崖を見ると思わず動物を放り投げてみたくなる衝動にかられるように育ってしまっては困っちゃうって話です...ってこのエントリーの書き出しが、既に投げ遣りになっちゃってるっていうか、崖から放り投げちゃってる様な始末です。
20日から26日は、動物愛護週間。坂東さんが、真意を語りたいと毎日新聞に寄稿した。
んで、その後に鳴海崇という人によって「解説」されちゃうのでして、すごく興味深い(面白くは無い)記事です。 しかもその「解説」の最後が妙なニュアンスで締め括られ、流石だなぁと感嘆しちゃいました。
それはさておき、文章書きが文章で自らの首を絞めていくのを他方で読むのは不思議な感触で、結局は呆れ果ててしまうものの...まぁいいや。
さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。
「生まれたばかりの子猫を殺す」事実と「私は自分も殺している」虚実が同列に扱われる事により、虚実が文面通りではなく「心であり気持ちであり精神的であり」という少々ベクトルのずれた解釈を可能にしている部分について、私はこの一文を非常に危険なものと捉えてます。
そしてその後の一言で駄目押しをしておる訳ですけれども、でもこれは突然の主観への飛躍が試みられ、膝カックンと同じくらいのダメージを読者に与えます。
エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。
っていうか、動物一切を飼わなければこの人の「傲慢」さをわざわざ露呈することもありませんし、少なくともオスを飼うなりすればいいのにと私は思います。 それでも
陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。
こういうなかなか素晴らしいセンスの文章を頭から捻くり出すには、メス猫を飼わなくちゃダメだし、そのメス猫に避妊手術なんか絶対にダメだし、生まれた小猫を崖から放り投げなくちゃダメなんですよ。
....んな訳はない。
ともあれ、オーケストラレベルの文章を書くにしても、読者から「オス飼えばいいのに」って突っ込まれてしまうようでは、文章書きとして、人間として、女性として如何なもんだろうか。




