ヒットコレクション 決定盤 内山田洋とクールファイブ
69年にデビューし,演歌の一時代を築き上げた言わずと知れたムード・コーラス・グループのベスト。大きなブームの去った80年代にもコンスタントにヒットを出し続けた彼らの功績が伺える。筒美京平作曲の⑲は隠れた名曲。ジャパニーズ・ソウルここにあり。
演歌は酒場だ。 演歌は酒場で流れるものだというのが私の持論です。
が、今や演歌は酒場で歌われるものであり、カラオケ屋という「酒場じゃないんじゃないのか?」ってスペースで流れず歌われるものになってからというもの、どんどんつまらないものになったように思われます。
私は「赤ちょうちん」を知らない世代なんで、演歌の流れる場所というと(そして安酒呑めるとなると)...これはどうかとも思われるかも知れないが...「神田川寿司」であります。
演歌とそしてそこで流れる店で言い得る特徴ってぇのは、その店の雰囲気が「さびれて」いる事。 勿論その店自体が寂れているんじゃなくて、店で流れている演歌が「来客の心象を現している」事に他ならず、演歌の流れるシチュエーションは客の「さびれ」を店側がBGMとして演出しているのであります。
でもさ、その「さびれ」を客自ら歌い上げてどうすんのよ!? そんな自虐的なねぇ?
例えば(今歌う人がいるか知らないけど)「思い出迷子」とかね、思い出が迷子になっちゃうの。 貴方の思い出が迷子になっちゃうっていうタイトルの楽曲を歌うのに対してさ、歌う前に自己批判は必要になるかも知れませんよ。
っていう位に、演歌のタイトルは体を表します。
閑話休題、物真似はされても本質を評価されてこなかった代表がクール・ファイブでしょう。
ボーカル前川清は、そのねちっこいボーカルスタイルで演歌の一時代を築いだと語られたのではありますが、そこにルサンチマンがあるというのが私の持論です。
普通に歌えば無味乾燥に歌える位の上質な楽曲だらけです。 兎に角曲が良い。 なのに前川清って男は、情念たっぷりに歌うんですよ。
確かに演歌自体がルサンチマンのかたまりのような存在ではありましたが、前川清のボーカルは、その高が外れて形振り構わずルサンチマンをブチまける型破りなスタイルであったんです。 これぞソウルでしょ(韓国の首都じゃないです)。
ルサンチマンが歌唱という餌に食らい付いて、そのエグさが一般市民の許容範囲だったんで売れた。
なんていう簡潔な解釈が、今考えれば成立するかも知れません。 でもね、じゃぁ取り敢えずはあれだ、「そして,神戸」を聴いてみて下さい。
(すいません、アマゾンのレビューとカブるところ多いです、この後は)
全然ご当地ソングじゃないです。 「神戸、泣いてどうなるのか」ですもの。 でもこれは五木ひろしの「横浜たそがれ」に通じる、単語区切りのインパクトと、倒置法的主観スライドの妙でしょう。
無論、オーケストラヒットで始まる演歌楽曲の最高峰に違いはないのですが、歌詞を受けて歌う前川清のソウルさはどうだろう。
そもそもに、「神戸(こぉぉぉぉべぇぇ)」は物真似されても、その後の「ないてどうなるのか」が、「ぬ泣"いてどうなるのか」のような、泣くのは神戸じゃななくて泣く自身であるという解釈を物真似屋さんは判ってたのだろうか、と思うんです。 この場合、前川清は神戸じゃなくて前川清自身の待遇について「どうなるのか」と問いたかったのではなかろうか。 その意味でのルサンチマンと、そして「こんなに思い入れたっぷりに歌えば特徴的なんじゃないか?」っていうウケ狙い的な感じだったんじゃないかなぁ。
歌詞については前川清のそれじゃなかったんですが、当時の業界の搾取に鑑みれば「捨てられた我が身が」とか、「夢の続き見せてくれ(誰か上手い嘘のつけ)る相手探す」とかいう部分は、実は「濁り水の中に『靴を投げ落とす』」という差し水があったからこそ、ソウルフルに歌えたのではないかと私は考えたのです。
そしてひとつがおわり...そしてひとつがうまれ...




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