天皇ごっこ
もし貴方が日本人で、「天皇」という存在を切実に感ずるとしてその存在についての答えを見出そうと躍起になるのであれば、非常に興味深いテクストがあります。
この作品です。
著者でありますところの見沢知廉さんについては、先ず公式サイトを御覧戴いてそのレジュメを把握しないとこの作品に対しての理解は殆ど得られないでしょう。 そしてその上でこの「天皇ごっこ」たるタイトルの作品を、右翼や左翼について相当の理解を持っていないのであれば作品中の筆者註をガイドとして読み進めなければなりません。
作品に投影されるモチベーションとは、その自身の経験が最初に契機となり得ましょうし、更にはそこから発展させた「経験」とは別のカタルシスの度合いを以て計る事が読者に許されております。 読者はそこから更に発展させた理解を自己の欲求の任せて生ませるのでもあります。
ところがどうでしょう、この作品に書かれているのは著者の振り幅が左から右に大きく在る為に読者の意識を軽く乗り越えて、新しくも不明たる地平線の上に読者を孤立させてしまいます。
例えば洗脳には、対象者を限りなく非日常の場に貶めてアイデンティティーを喪失させ、或いは喪失させるように思わせて新しい思想を注入させるパターンがあります。 それは一つになるべく不眠状態にさせた上で判断能力を鈍くさせてアイデンティティーを曖昧模糊とさせるものでもありましょう。
しかしながらこの作品に洗脳的なエレメントはとても少なく、それはテレビとインターネットとの対比よろしく、能動的か受動的な差を前提とした上での読者からの事後的なアプローチでありますから、決して洗脳性は見出せず、逆説的に申し上げれば「洗脳されたい」欲求の現れである場合が非常に多いのではないでしょうか。 視点をずらしてみれば、自ら不眠と同様のアイデンティティーに於ける突破線を構築した上でマゾ的にこの作品を受け入れる向きがあっても、この作品の特異性をそれこそ受け入れる在り方として成立出来ないという事由には成り得ません。
詰まり、日本に於ける天皇陛下の存在とを即ち、天皇陛下が国民や国体に於いての象徴であるかは先ず問われずに、それを受けた側の主体と周辺をこの作品では問うところであります。 その意味では全くこの作品は問題作と言えましょう。 但し、その問題の発起は読者に存在する旨を感じ取らなくてはなりません。
アイデンティティーを再構築する為の教科書とも言える作品だと私は思います。
力任せに強引に話は変わりますけど、松田新平さんが死去されたそうですね。





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