曖昧な存在(O Corpo Sutil)
Arto Lindsay(アート・リンゼイ)という人を私はこれまで、よくある話ですが「イーノのプロデュースした何とかというオムニバスアルバムに何とかというバンドで参加したギタリストで、後に何とかっていうバンドに居たりなんかした」っていう程度の認識しか持っておりませんでした。
いや...実はフライング・リザーズ(だったっけ?ラウンジ・リザーズだったっけ?)のCDは持っていたんですけど、引っ越しの時にセコハン屋に売り払ったので、私としては全然知らなかった、という感じの楽曲的認識であると結論付けます。
ここまで書いておいてアレですが、全部忘れて下さい。
カエターノ・ヴェローゾの作品を一寸集めて愛聴しつつ、同時に文献資料を集めていたら、発刊当時に買おうかどうしようか悩んで結果的に買わなかった「ユリイカー詩と批評 (第35巻第2号)」即ちカエターノ特集がマストアイテムである事を知人から教えて貰った次第であり、それはそれは速攻で買い求めたのでありました。
つか、今読んでる中でありまして、幾つかの書籍を同時進行的に読む私の傾向としては、結果的に1冊の書籍を読了するのに時間が掛かるものです。
いや、あのね。 昨日アート・リンゼイのインタビューのトコを読み終わったところなんです。
アート・リンゼイと言えばDNAの印象が強く、その後何をしようとDNAが基準として語られてしまうところであり、私もそういう風潮に感化された次第ではありますが、もう、それは払拭してこの「曖昧な存在(O Corpo Sutil)」について語りたいところでありますし、もしこのエントリーを読んでくれるのでありましたら、私と同じ新しい観点で氏を見直して欲しいです。
だってこれ、すごく良い作品なんだもん!!
私が思いますに、ラテン音楽はそのリズム解釈(リズム楽器の解釈ではありません)が強烈であります。 ラテン...というかサンバの内省的解釈であるボッサ・ノバは、その点で言えばこの視点から外れて仕舞われがちな印象を受けがちではありますけれど、実はとてもリズミカルでありまして、「リズミカル」という定義が決して「速いリズム」を指すものでは無い事実を示す最良のサンプルとしても存在意義を見出せるところです。
この決して弁解じゃない前提のもとに立てば、アート・リンゼイさんがリリースした「曖昧な存在」はボッサ・ノバの最重要アイテムであると言い換える事が可能です。
或る意味「ロマンティックの極致」たる作品とも言えましょう。




