八つ墓村(KC)
リンクは現在アマゾンで購入出来るらしいコミックセットです。 私が所有しているのは昭和50年に発行された講談社コミックスの2刷。
実は私、八つ墓村という物語は読んだ事が一切無く、映画も観た事がありません。 何故ならばそれは「怖そうだから」。
死体や、そこに行き着くまでのプロセス、残酷さに関して私は、リアルなものでしたらそれほど怖がらないのですけれども、ことこれが作り物であれば超ガクガクブルブルです。 作り物という言い方に語弊があると感じつつも書きました。 言い直すならばテキストや映像を指すものと捉えて下さい。 ですのでスプラッター映画なんて絶対に観ません。 これは恐らく、10代の頃にJR新宿駅の山手線ホームにて、前に居た(ホームギリギリに居た)フラフラしているおかしな男性が、電車が通り過ぎようかという直前にホームに倒れ込んだのを、偶然というか「思いっ切り必然的に」見てしまった事が原因となっているのかも知れませんけれども、私がそこに悟ったのは、リアルなスプラッターさんはそんなにリアルでは無く、いとも簡単に風化(この場合は「撤去」)してしまうものなのだ、という事です。
話は少々脱線しますが、最近のガキは死体をあんまり見ないものだそうな。 例えば、祖父母が死んだとしますと、その死に目とか、或いは「死に目」の後のオブジェクトとしての「死体」を孫なんざは見ないらしいですね。 一つは「見せない」というのと、もう一つが「見る機会がない」というのと。 これは詰まり、祖父母が死んだってぇんで駆けつけてみたら、棺に入っちゃってるし、「ねーねー見てもいい?」とか言えそうもないシチュエーションだったりとか、見る機会があるにも関わらず見るのは親(仏からみれば子)だけ(そして最近は妙なリアクションをおこしたり)とか、そういう「死」に対して偏った、言い換えて最近のゴジセっぽく言えば
夢想的な死の擬視感、或いは2D的で不可逆性の死(Jpeg的死体視)
です...って、全然御時世っぽくありませんし、妙な日本語なんですけども、まぁいいや。
グチャドロのグロ映画とか観ている事実を踏まえリアルな死体を観てこれを同一化してしまうのは流石に如何ともし難いところであります。 「死」というか、「血」や「肉」或いは「骨」等の物質的な身体の認識が、それを生活レベルに於いて基本的要素として捉えられない(家に居てばかりで外で遊んで怪我をした事の無い、とか、喧嘩して相手や自分に傷を負った事の無い)経緯を死は自己の精神の範疇外にある、例えてみればRPGで言うところの安易な「HP:0」と同一視されている事実が語るところを、我々は昨今の少年少女の起こす凶悪な事件として見る事が出来るのです。
っていう、今テキトーに考えてデッチ上げた前置きはどうでもいいんです。
この漫画は、読むにそれほど怖くはありません。
余談ですが、Googleであれこれ調べてみるとナニゲにプレミアがついているみたい。 私は近所の古本屋さんで2冊400円で購入しました。 内容的にはそれくらいだと思います。





