'98.12.28男達の別れ
(2003/08/21頃、前サイトで書いたもの)
つまらない1つは、12/28が私の誕生日であること。
もう1つは、このライブ盤がフィッシュマンズの最後のリリースであり、それはベースの人が脱退する旨の「男達の別れ」でありもします。
更にもう1つ付け加えなければならない理由が、後者の「ベーシスト脱退記念」よりも後から重要視されてしまう結果になったのではありますけれども、これは即ち、残ったメンバーの1人が後日死去してしまった事実を表すのでありまして、二重の意味で
「男達の別れ」
なのであります。
残る1人はスカパラに加入しつつ、今でもFishmansのメンバーと表明しております。
何故今もそれを表明するのか。 これは残念ながら当事者の中でしか解り得ない範疇なのでしょうけれども、その「表明」はFishmansの存在意義を高く評価する証左でしかありません。
ではどうしてFishmansの意義をリスナーの私が今更語らなくてはならないのか。 これに対する返事は余りに簡潔に纏められます。 即ち、Fishmansが残した楽曲とは、その内容の高揚さにアピールして十分だからなのであります。
レゲエを簡潔に語る時、それを「裏打ちのリズム体制」のみだとは語れない事実は今や、「レゲエっぽい感じの楽曲」が音楽業界として普段にニーズを受けている現状を鑑みればそこに「レゲエとは本来何か?」なる根本を問いただすものではあります。
つかさ、レゲエを語れるのはキングストンの人だけでしょ。
Fishmansはレゲエとそれに付随するダブを日本人的に昇華し、誰もがしがちなありがちなレゲエ/ダブの安易さを越えた上に存在する類い稀なる存在であり、今や存在はありません。
ここで起こった疑問は、問われればそれはそのリスナーのバックグラウンドの貧しさを露呈するだけで、それに関しては述べる必要が無いのであります。
Fishmansとはなんぞや!?
と言われれば、当然「レゲエ」で言い得ます。 しかしながら、それは一言で言ったのでしか無く、Fishmansはレゲエだけのバンドではありませんでした。 単に根本がレゲエだけなのであり、Fishmansにとってレゲエは一つのエレメントでしか無いのであります。
簡単な話です。 このCDを聴いてみて下さい。 そこで全て解決されるのですから。





